電子上で本を形作ることが必要なのか

自分の好きな解説記事やブログ記事を電子書籍化して他の人に渡してみたいという記事を書いておきながらだが。

本という形に関して疑問を持っている。

疑問を持つことに至った経緯は大塚英志氏が行っている未来まんが研究所の動画を2,3本見て、氏の言説に影響されたからである。

良い刺激になった。そこから冊子について自分なりに考えている。

本来、文字や絵などを描かれた紙は巻き取られ、巻物の形になった。巻物はカセットテープのようなもので、シーケンシャルにしか読むことが出来ず、頭だしができない。その後、頭だしが容易な冊子が一般的になった。これはカセットテープとCDの、VHSとDVDの、違いと世代交代に類似している。

冊子における文字や絵の配置に関しては、身開きに最適化されている。漫画の場合はめくった場合に目立つような構図にこだわるときがある。小説の挿絵も、冊子独特の工夫に見える。

楽譜の場合も構図に創作性がある。ベートーベンなどの著作権が切れた作曲家の音楽を収録した楽譜には著作権で守られる創作性があるため、コピーすることができない。例えばページ内にどのように収めるかによって演奏のしやすさが変わる(らしい)。

ならば、再度、冊子・身開きという体裁を電子書籍上に持ってくる意味や意義はあるのか、という疑問がある。紙という有限のメディアの上で良いとされてきた伝統をそのまま電子書籍上に持ってきてもよいものか。

EPUBとPDFの対立の話で、日本語独自の機能を策定するためにEPUBを考える必要がある、としているが、どうもズレて感じる。EPUBがHTMLを採用しており、EPUB3にてHTML5とCSS3を利用しているのは良い。実装としては本以外の何かになり得る力を持っている。しかし結果として出てくるのは本だ。

話が変わるが、iPhoneの登場で指で操作できることに目を奪われた。しかし、指で操作できると共に、指でスクロールできる点にもっと着目すべきではなかったか。スクロールそのものはWebサイトでも可能で、よく縦スクロールが利用されている。巻物の時代は検索性や一覧性に難があった。しかし現在ではハイパーリンクの仕組みで解決されている。

「ページをめくる」「スクロールする」それぞれに専用にコンテンツが作られていった場合、どちらが見やすいのかについては議論の価値がある。

またスクロール以外にも模索する楽しみがある。Flashのような自動再生という形も実装可能だ。スマートフォンにある星座板アプリのように方角などの組み合わせもあるし、QRコードやジオタグなどの仕組みもある。

また形だけではなく、発表のされ方、制作のされ方も変質する。

以前に音楽CDの容量がどのようにして決まったのかについてその時代の最新技術でできることを検討するということという記事の中で「ベートーベンの交響曲第九番」が元になったことを挙げた。その後、POPやROCKがCDの上で発展していった。

アルバムが12cmのCDの完成品だとすれば、シングルは8cmのCDの(アルバムに対する)先行者プレミアム製品もしくはバラ売り、として見る事ができる。その宣伝を行うのが、ラジオだったりテレビだったりした。

しかし現在はインターネット上で流通のコストを抑えて配布することができる。製本する必要がなくアルバムにする必要がなく、話数単位、曲単位で売ることができるようになった。

ここまでくると、もはや、未完成の状態でも売りに出す、という形すら出てくるのではないか、と期待が出来る。完成するまで見せるなという初見と説明と名前とは対立するのだけれども。

発表のされ方が変わると、おのずと電子書籍のような形態も変化すべきではなかろうか。それはディアゴスティーニのように毎号そろえたくなるバインダーのような仕組みかもしれない。音楽では、楽器の音1つ1つがそろっていき、最後にミキシング(混合)される形なのかもしれない。小説の場合は登場人物1人1人の視点が追加されていくようなものかもしれない。

ということで、「未来の電子書籍や音楽の形は、作品の発表のされ方に影響を受けて見やすい形に変質するのかもしれない」ということが今回考えた結果でございます。

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