考えれば考えるほど鬱屈になる

俺のポエム

大勢が認めるものについて行くのは楽だ。もし、それで間違ったとしても同情はされるし、それが国家的間違いであれば保障もされる。そして、それを皆が正しいと信じている。大衆には迎合しなければならない。

自分の欲望に気づかない方が幸せなのかもしれない。だから、他人の欲望を引き出すことは罪なのかもしれない。しかしながら、現状で本当に幸せなのかと思う。その生き方を選んで満足して死んでいけるのか。生きる理由になるのか。

約束は大事だ。それは他者とのつながりだから、なるべく守るようにしたい。でも、自分との約束を守れない。自分を裏切り、自分に裏切られる。いつかの自分と違う道を歩いている。それが正しいと言い聞かせているが、あのときの自分とすれ違ったままだ。だから、道を分かつ前の自分に戻りたいと思うのかもしれない。

引き寄せられるままに歩く道は、楽だ。あの時、自分の未来がすべて見えてしまった。あの時、予想したいくつかの未来のうちのひとつを今、歩いている。今後の未来もすべからく、予想できた。だから逸脱した。今後、たどるべき未来と自分の指向のパフォーマンスの最大公約数をとった最善の道を拒否した。安定の道を捨てた。

あれは誰かが創り出した未来で、自分が創り出した未来ではなかった。だから個人的思想を優先させた。

いくつもの道を作ることに夢中で、本当に歩くべき道を、歩きたかった道を歩くことができなかった。今になって、道を捨てることの大事さに気がついた。多くの道が歩ける人間は、迷いによって踏み出せなくなる。ただひとつの道しか歩けない人間は、全力で道を駆け抜ける。

全力で取り組まない限り、完全に諦めることはできない。悔いを残して生きていかなければならない。後悔して生きていかなければならない。昔を思い出して生きていかなければならない。自分を殺して生きていかなければならない。全力で無駄だったとすれば、終わればいい。しかしながら、その閾は限りなく高い。

しかしながら、最速で辿り着くことが答えではない。欲望を満たすために目標とするのだから。

それでも尚、大衆迎合的に行くべきか、個人的思想を満足するために生きるか、迷う。何のために生きてゆくのか迷う。数年前、ジェネラリストを選んだ自分に問いただしたい。何のためにそれを選んだのか。そもそも何をしたかったのか。それを考え続けることが生きることなのか。

それを考えることを止めてはならない。それを考えることは無駄ではない。しかし考えれば考えるほど鬱屈になる。

誰かが描いた道を歩くのも、それはそれで人生だ。その道の利点は、他者責任だ。それが間違いであれば、道を書いた誰かを批判して恨んで憎んで生きていけばいい。自分から逆らうことも打開することもない。けれどそれで生きている実感を得られるのか。いや、生きていると言えるのか。個である必然があるのか。既に奴隷なのか。

しかしその逆の道は自滅だ。笑える。本当に可笑しい。一番笑えるのはその道を迷いなく歩くことができない自分自身だ。希望よりも諦めを抱えてしか歩く覚悟がない、自分自身がもっとも笑えるし、哀しい。

自分だけでなく、皆を巻き込んで地獄に突っ込むくらいの覚悟と勇気が欲しい。責任を担げるくらいの背中が欲しい。そのためにしなければならないことも分かっている。分かっているが踏み出せない。本当に自分が窮地に陥るようなリスクを取った覚えがないような気がする。

経験をすればするほど怖くなる。臆病になる。だから怖いもの知らずで信念を信じてきたあのころを思い出すのだろうか。僕を臆病にさせた原因となるいくつかの経験を僕は覚えている。

それを克服しない限り、僕は0になるほどのリスクを背負って信念とともに道を歩けないのだろうか。それを背負ったまま、歩くことはできるのだろうか。

それを考えることを止めてはならない。それを考えることは無駄ではない。しかし考えれば考えるほど鬱屈になる。

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