海賊版の役割と国の発展

某国で海賊版を(少なくとも真面目に)取り締まらないという政策を行っており、その国がいまや世界で大成長を記録するほどになっている。その国の抱えている問題として海賊版がある。なぜ、その国の政府が海賊版を取り締まらないのか、と考えたことはあるだろうか。その問いの答えを考えることが、まさに面白い。

通常、政府は著作権や特許を守ろうとする。著作権や特許が保護されるのは、文化や産業の成長を促すためだ。もし、このような権利がなければ、著作物を生み出しても複製され、対価を得ることができない。対価を得ることが出来なければ作者が生きていくことができず、またビジネスにもならないため、文化の発展を阻害する。

特許に関しても同じで、今現在の画期的な技術が存在するのであれば、それを公開することによって他者がそれを調べ、ある程度時間の経ったものに関しては使えるようになることで、産業全体の技術が押し上げられる。よって関連する特許などは調べ、特許切れになったものから安く生産されるようになるが、その例として挙げられるのはジェネリック医薬品である。

このように海賊を取り締まることで、文化の発展を望め、また、このような文化は相手国においてもその国の著作権によって守られるので、権利物でグローバルな商売を行うことが出来る。その一端として、ゲーム、映画、ドラマなどの文化が相互交流しており、一昔前に韓流ブームが発生した利益で日本から流出した権利料もかなりのものになったはずだ(またチェジュ島への観光が増えるなどのオマケつき)。

しかしながら、文化発展を行える国というのは、またある程度発展した国でなければならないのではないか、という問いもある。文化を追求するためには、ある程度の浮いた金が存在しなければ生み出すための生活すらもできないからだ。

また、国として特に工業に力を入れていきたいと考えている中で文化発展をも並列で行う必要があるのか、という問いもある。集中と選択という言葉があるように、ある特定分野の産業を発展させるべきと判断すれば、別の分野は捨てるということはあるのではないか。

広大な土地と資源、尋常ならざる量的労働力があり、また先進国へ至るための当然の工業輸出国という道を歩むためには、選択として、文化発展を捨てざる得なかったのではないか、と考えるようになってきた。工業国化が成り金が余ってきた際に政策を変更し、文化を発展させていけばいいからだ。

その代わり、自国の文化に対する尊敬が失われてしまう可能性があるので、それは学校教育や、著作物の内容を精査し、時には修正することによって、守らなければならないものもある。そのために検閲が必要であると考えられるのではないか。加えて、貧乏な人でも安価な海賊版が手に入るので、ある程度のガス抜きはできる。内容物を作って売りたいと考えるのであれば、初めから海外を視野にいれたものを作るか、海外に留学するよう促せばよい。

もしそのような経路を通った場合、文化政策へ変更した時点で今まで海賊版漬けだった市民が耐え切れるかどうか、は微妙だが、金が余ってくれば問題はないだろう。その場合、海外の高い内容物よりも、誇りある国内の安い内容物を育てるという気概で購入するよう煽ればいいように見える。文化発展を考える際に必要な要素はいくつかあると考えるが、”今までに良質の内容物に触れたことがあるのかどうか”という点が重要であり、それを海賊版によって既に満たされているという状況は優位に働くかもしれない。

以上の考察から、某国の著作権無視は、国家的戦略が上手く構築されていることの証明であり、国として無視できるものは無視して恥をかいてでも、外貨を稼ぐ、という目的を満たすためのことであったのではないかな、と、いまさらながら思うのだ。

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